ニーチェは博士号や教員免許もないが、あまりにも秀才過ぎて大学教授に
今回は、哲学者のニーチェです。
彼は『神は死んだ』の人と言えば、分かりやすいかもしれません。
やはりずば抜けると、大学側から教授になってくれと言われるんですね
本名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。
1844年にプロイセン王国 (←現在のドイツ北部からポーランド西部あたり)
で生まれました。
お父さんのカールは、
ルター派 (※1) の裕福な牧師でしたが、ニーチェが5歳の時に亡くなってしまいます。
その後、引っ越しをし、ニーチェは父方の祖母と2人の叔母と生活することになります。
国語などの才能に恵まれたニーチェは、
ドイツの名門校プフォルター学院という学校に特待生として入学します。
その後、大学に進んだ彼は神進学と古典文献学を学びます。
牧師の家系でしたが、
キリスト教信仰も捨て、神学の勉強も止めてしまいました。
もちろん、彼のお母さんはぶちぎれたそうです。
当時は、牧師の息子が信仰を捨てるのはあり得ないという考えがあったため。
そして24歳の時、ニーチェは博士号や教員資格を取得していませんでしたが、
あまりにも優秀なので彼を教授にしたいという強い推薦を受け、
バーゼル大学 (←スイスの大学) で古典文献学の教授となりました。
ただ本人は哲学を教えたかったそうですが
その願いもかなわず、古典文献学をしぶしぶ教えていました。
数年後、病気に苦しめられたニーチェは大学を辞めざるを得なくなり、
哲学関係の執筆活動に力を入れていきます。
彼はギリシア哲学などの影響を受け、
西洋の文化をその当時の人があまり考えられない目線で批評しました。
ただ晩年は精神的におかしくなっていたそうで
警察のお世話になるような騒動を起こしたり、
よく分からない手紙を友人などに送っていたようです。
そして1900年、ニーチェは肺炎になり、55歳で亡くなりました。
哲学者・ニーチェの名言
↑ニーチェはこの道じゃないと私の人生は終わりではなく、
この道が行けないならこちらでもいい。
もしくは道がないなら創ってやるわ、という考え方で行こうよ
と言っているのでしょう。
↑他人に運ばれるという事は社会で言うと、すでに確立されている仕事や第一人者の教えた通りにやるのは模倣、または劣化コピーになりますから本当に高いところには登れない、ということです。
↑例えて言うなら、『朱に交われば赤くなる』ですね。
いや~、良い言葉でしたね!
(私は哲学が好きなので、好意的偏見が入ります。)
ニーチェの名言はこれに以外にもいっぱいあるので機会があればまた紹介したいと思います。
今回はここまで、またの機会があればぜひ。